「ミリオンダラー・ベイビー」鑑賞

今年のアカデミーでクリント・イーストウッドに2度目の監督賞と作品賞を与えた、ミリオンダラー・ベイビーをレイトショーで観て来ました。
女性ボクサーと老トレーナーの栄光と挫折、その絆を描いた作品なのですが…。
…またしても「尊厳」を扱う映画に出会ってしまいました。
実は最近、我妻君と「海を飛ぶ夢」という作品を観たんです。
事故で首から下が完全に動かない男が自らの尊厳死を求める物語なんですが、そこでは「生とは何か」という事を常に観客へ訴えていました。
自由に生き方を選ぶ事が生なのか。
それとも、命を全うすることが生なのか。
結局鑑賞後もオレは答えを出せずに、今日まで至ってしまっています。
で、皮肉にもこのミリオンダラー・ベイビーでも同じような出来事が起こります。
ボクシングの反則技を受け、首の骨を折って体を動かせなくなったマギー(ヒラリー・スワンク)。
自分とトレーナーのフランキー(クリント・イーストウッド)との絆でもあり、自身のアイデンティティでもあるボクシングが出来なくなり、彼女は彼に死を求めます。
「観客の声援が耳に残っているうちに死にたい」と。
マギーを守りたい。
でも彼女を生かしたとしても、それは人として死んでいるに等しい。
悩みぬいたフランキーの出した答えは、独断で彼女を安楽死させてやる事でした。
結果、その後彼はボクシングジムに姿を現すことの無いまま、映画は終わりを迎えます。
本当に映画の神様というものは、オレにこの問題の答えを出さない事を許してはくれないようです。


劇中でモーガン・フリーマンが演ずるスクラップはこんな台詞を語っていました。
「人間には生まれつきボクシングの試合を出来る数が決まっているそうだ。俺の場合は109回だった」と。
もしオレにも映画を観れる数が決まっていたなら、あと何回なのでしょうか?
そして映画を観れない身体になってしまったとしたら、オレは死を望むでしょうか?
ベッドに貼り付けになり、世界が拷問のような時間の流れる監獄になってしまったとしたら…。
断言は出来ませんが、おそらく本気で死を考えると思います。
でも、その時に自分の一番大切な人…、たとえば弟に「オレを殺してくれ」とは言えないと思います。
何故なら自分が逆の立場になった時に、オレは絶対に弟を殺せないからです。
もし本当に殺してしまったとしたら、オレは一生どころか来世まで後悔し続け、自分を恨み抜くでしょう。
だから相手をそんな目に遭わせたくありません。
よってオレはどんなに辛くとも、生きることを選ぶと思います。
…青すぎる考えかもしれませんが、それが現時点でのオレの答えです。
もっと「フォレスト・ガンプ」の母親のように、死を受け入れられる器を持った人間に成長できなたなら、この考えも変わるのでしょうか?
願わくばそんな人間の気持ちにさせてくれるような映画に、出会ってみたいものです。


余談ですが、映画の最後に「一度の敗北は当たり前だよな」と言って再びボクシングを始める男が描かれます。
この物語のその後で、彼のようにフランキーがまたジムに戻ってきてくれる事をオレは望んで止みません。